
日本のコロナ状況について言及するのは、これが最後になる。
半年ほど前までは、自分の祖国でもあり、韓国の永遠の友邦でもある日本のコロナの状況を心配していた。
しかしながら、誇り高い日本人は、外国からの助言などは必要ないようなので、妻を追って韓国に移住した日本人の私が何を言おうと聞く耳を持たないことがはっきりしたので、今回を最後にもう言及することはないだろう。
代わりに韓国のコロナ状況について語ってみたいと思う。が、あまり枝葉末節に入って行っても仕方ない。自分は医学者でもジャーナリストでもない、ただの結婚移民に過ぎないので、生活者としての実感をここに書いてみたい。
韓国におけるコロナの対策は、経済学風に言うとelasticityがあると思う。
elasticityは日本語では「弾力性」と訳されるらしいが、感覚が伝わるかどうか不安である。ある政策にelasticityがあるとき、その政策にはより明らかな成果が見えるのである。
elasticityを別の言葉で言い換えてみよう。韓国のコロナ対策は、「ブレーキの利き」がいいと思う。決して、コロナ新規患者がゼロになったわけでは無い。たびたび小流行を繰り返している。だが、そのたびに、「しっかり対策をすれば2週間後には感染者が激減しているはずだ」という安心感に近い感情がある。
韓国では、政府のコロナ対策本部がある。疾病管理庁という。元はそれほど大きな部署ではなく、疾病管理本部という扱いだったが、2020年9月に独立した省庁となった。この経緯は、韓国在住のジャーナリストの徐台教氏の記事に詳しい。
https://news.yahoo.co.jp/byline/seodaegyo/20200911-00197832/
疾病管理庁やその前身たる疾病管理本部は、今年の1月から八面六臂の大活躍だった。初期の中国からの入国者・接触者のトラッキング、マスクなどの効果に関する調査と宣伝、南部の都市である大邱での大流行の即座の鎮圧、数えればきりがない。
今年の4月には国会議員選出の選挙があった。大邱での大流行が落ち着いて間もない時期に、選挙という人と人が交わりあうイベントを、全国規模で行うことにかなりの不安があった。が、ふたを開けてみればほとんど影響がないことが明らかになった。
また、8月には光復節に極右団体が大規模集会を行ったこともある。この時には極右が、当局の監視にも関わらずなりふり構わず振り切って集会を開いたのだが、ここでも一時拡散の兆しがあった。疾病管理本部はこの時、改めてコロナの脅威を盛んに社会に対して呼びかけたところ、2週間後にはまた落ち着きを取り戻した。
9月末には韓国人の重要な伝統イベントの一つである、秋夕(チュソク)というものもあった。これは旧暦のお盆のようなもので、親戚一同が集まるための連休だったが、ここでも政府が「今年は集まらないほうがいいですよ」ということを陰に陽に言い続けた結果、秋夕でのコロナ再拡散は防がれた。
こうした政府のリーダーシップと、それに伴って(2週間という)時間差で鎮圧がなされるという繰り返しが、韓国社会全体に、「たとえ再拡散の兆しがあっても、しっかり隔離や自制をすれば抑え込める」という自信のようなものを与えているように思う。
韓国にとっても、世界の他の全ての国と同じように、コロナは未知の脅威である。だが、同じ未知の脅威であっても、それに立ち向かう人々の心持ちによって、生まれる結果が極端に違うようだ。
中国は、この問題のウイルスの大流行が最初に確認された国である。人口も世界で一番多い。しかしながら、徹底した検査と隔離とロックダウンによって、すでに事実上感染者をゼロにするところまで来ている。台湾も、ベトナムも、ニュージーランドも、同様に徹底した対策によって、自分たちの社会での感染者をゼロに近い水準で抑え続けている。
一方、日本やアメリカでは、そもそもコロナを封じ込めるべきかどうかについての議論を、いまだに続けているらしい。封じ込めが可能であることが、上記のような諸外国の例からすでに明らかになっても、そういう議論をしているらしい。とても不思議である。
コロナを完全に抑え込み続けている台湾では先日、性的少数者のパレードが行われたという。同性婚をアジアで初めて合法化した台湾が、コロナを完全に抑えているのは、決して偶然ではないと思う。未知の脅威に対する際に最も必要なのは、自分の知らない領域があると虚心に認める態度である。無知の知、とも言う。そうした知的態度を維持するのは、例えば社会的弱者に対する態度と相関があるはずだ。
「知性を蔑ろにした社会には決して克服できない脅威」が登場してしまった時代に、我々は生きている。