最近、「SNSは終わった」といった言説をよく目にする。確かに、陰謀論やエコーチェンバーの問題、さらにはイーロン・マスクによるツイッターの改悪など、SNSに関するネガティブなニュースは枚挙にいとまがない。しかし、敢えてSNSというものを擁護し、その社会的意義について考えてみたい。
SNSの最大の特徴は、物理的な距離や制約を超えて繋がりを作れる点にある。特に社会的少数派にとって、この点は大きな意味を持つ。例えば、性的マイノリティや民族的少数派の人々は、現実のコミュニティで理解者や仲間を見つけることが難しい場合が多い。しかしSNSでは、世界中の同じ境遇の人々と簡単に繋がることができる。その結果、自分のアイデンティティを肯定し、孤独を感じることなく生きるための居場所を見つけることが可能になる。
先日、オーストラリアでのSNS規制に関する議論を日本語で紹介した新聞記事を読んだ。その中で、規制反対派の主張の一つに強く共感した。それは、「思春期の性的マイノリティの子供が、自分の地域では理解者を見つけられなくても、SNSを通じて遠く離れた場所の同じ境遇の仲間と繋がれる。こうした機会を規制によって奪うべきではない」というものであった。SNSの負の側面ばかりが語られる中で、この主張は、SNSが持つ社会的価値を思い出させてくれる。
私自身も、SNSの恩恵を受けた一人である。私は成人後に韓国に移住した日本人であり、妻は韓国人、子供たちは二重国籍だ。私の周囲には、外国人や民族的少数派、ミックスルーツを持つ人々が多くいる。そうした人々が、地理的な制約を超えて情報や経験を共有し、互いに支え合うためにSNSを活用している様子を日々目にしてきた。現実世界で得られない繋がりを築くためのツールとして、SNSは依然として有用であり、重要だと感じる。
一方で、「今のSNSには狂人しか残っていない」というような極端な意見も耳にする。しかし、こうした言説は、多くの場合、自分が少数派に属さない「恵まれた立場」にいることに無自覚な人々によるものではないだろうか。彼らにとっては、SNSがなくても現実社会で十分な繋がりや支援が得られるのかもしれない。しかし、少数派にとっては、SNSはそのような「恵まれた人々」と同じ基盤を手に入れるための貴重な手段なのだ。
SNSが抱える課題は確かに大きいが、その本質的な価値を見失うべきではない。特に社会的少数派の人々にとって、SNSは物理的制約を超えた繋がりを提供する重要な存在であり、それを単純に否定することは、彼らの居場所や可能性を奪うことにつながるのではないだろうか。SNSの未来を考える上で、その価値を再評価し、建設的な議論を進めることが必要だと考える。