朴正熙・全斗煥軍事政権期における検察制度の構造と政治的役割

はじめに

朴正熙政権(1961–1979年)および全斗煥政権(1980–1988年)は、韓国現代史における権威主義的な軍事独裁期である。両政権下では反共イデオロギーと開発独裁を掲げつつ、民主的権利の抑圧と政治的弾圧が体系的に行われた。その中で検察制度は、法治国家の外観を保ちながら独裁の維持に寄与する重要な装置となった。検察は形式上司法手続を担う機関であるが、軍事政権期には統治者の意向に沿って政治反対派の起訴・処罰に深く関与し、「統治の刃」として機能したとされる 。本稿では軍事政権下における韓国検察制度の法的・制度的構造と、それが政治的弾圧や独裁体制の維持に果たした役割について学術的視点から分析する。また、光州事件や緊急措置といった代表的事件における検察の動きを検討し、軍事政権との協調関係の成立過程を考察する。最後に、民主化以降の検察制度との比較を通じて、この時代の検察制度を評価する。

軍事政権下の検察制度の法的・制度的構造

中央集権的な指揮系統と独立性の欠如: 韓国の検察制度は日本統治時代に導入された大陸法系モデルに基づき、法務部(法務省に相当)の指揮下に全国検察庁を統括する検事総長が置かれる垂直的・集権的な構造を持つ 。検察官は司法試験を経て若年で採用され、組織内で訓練・昇進する官僚機構の一部であり、上級者が下級者の捜査・起訴を細かく監督するヒエラルキーが確立していた 。本来、このような中央集権・官僚的統制の仕組みは、検察活動の統一性と質の確保を目的とするが、軍事独裁下ではむしろ上層部や政権による統制の手段として利用された 。検察官人事は功績や年次により決定される建前であったが、実際には大統領が任命する法務部長官や検事総長を通じて政権の影響力が行使され、出世欲に付け込む形で政権迎合的な姿勢を組織に植え付けたと指摘されている 。

法制度面での独裁者による掌握: 朴正熙は1972年の維新(ユシン)憲法で大統領権限を飛躍的に強化したが、これは司法・検察の独立性を著しく損なう内容であった。維新憲法下では大統領が全ての法官(裁判官)を任命でき、1973年には政権に批判的とみなされた多数の判事が再任用から脱落(事実上の追放)させられた 。さらに同憲法は違憲立法審査権を裁判所から奪い憲法委員会に移管するとともに、拷問による自白の証拠能力否定規定まで削除した 。つまり法律上も大統領・政権が検察・司法を左右できる枠組みが整備され、基本的人権の保障は形骸化した。朴正熙政権下では法務部長官が公訴権行使に指揮権を発動することも容易であり、検察の政治的中立性は事実上存在しなかった。全斗煥政権も1980年に発足した第5共和国憲法の下で、大統領の検察人事支配や非常戒厳権の行使を可能にし、前政権の路線を踏襲したと言える。

他機関との力関係: 軍事政権期、検察は国家保安や政治犯対応において重要な役割を果たしたものの、その地位はしばしば情報機関や軍・警察に比べ低く扱われたとされる。実際、当時の検察は警察・中央情報部(KCIA)・保安司令部などに比べ「力が無い存在」であり、政権内部では「法律サービス機関」に過ぎなかったと評される 。政権が行った非合法な行為を合法に装う道具としての役割が期待されたためである 。例えば、政権高官や軍部による不当な逮捕・拷問・言論封殺が行われても、検察はそれを追及するどころか、逆に形式的な起訴手続きを進めることで統治の正当化に寄与した。こうした状況は、検察が本来担うべき権力抑制機能を放棄し、体制の一部に組み込まれていたことを示している。

「公安部」の創設: 朴正熙政権期には、体制に挑戦する動きを専門に取り締まるため検察内部に特別部局が整備された。とりわけ有名なのが**「公安部」(公安部)と呼ばれる部署で、これは政治活動や国家保安事件を扱う専門部門である。中央情報部と協調して左翼運動やスパイ事件の捜査・起訴を担い、独裁体制を法的に支える尖兵となった 。公安部はまず1963年にソウル地検に設置され、中央情報部が捏造したスパイ・内乱事件に法の御墨付きを与える役割を果たし始めた 。1973年には検察頂点の大検察庁(最高検)に大検公安部**が正式に創設され、以後、公安部門は検察官にとって「出世コース」と呼ばれる花形部署となった 。優秀なエリート検事が配属される最高の要職とされ、特に全斗煥政権以降~1990年代半ばにかけては検察内でも大きな威勢を振るった 。このような組織上の重みづけ自体が、検察が国家保安・体制維持を最優先任務とみなしていたことを物語っている。

検察による政治弾圧への関与

軍事独裁下では、検察は法の執行者として政敵や市民の弾圧に直接関与した。独裁政権は反対勢力を取り締まる際、しばしば法律を道具として利用したため、その執行機関である検察官が前面に立ったのである。具体的には、国家保安法(反共・反政府活動を処罰)や反共法、さらには後述する**非常措置(緊急措置)**違反などの罪名で、多数の政治犯が検察によって起訴された。検察は政権の意向に沿って罪状をデッチ上げたり、厳重な量刑を求刑したりすることで、言論弾圧や野党・学生運動の抑圧を法的に実行したのである 。以下では主な手法と事例を概観する。

国家保安事件・スパイ事件の捏造: 朴正熙政権期には、反体制派を「北朝鮮のスパイ」「反国家団体」として扱うことで弾圧する事件が頻発した。中央情報部(KCIA)が関与して証拠を捏造した事件でも、起訴状を作成するのは検察であり、法廷で有罪を勝ち取る役割を担った 。代表例が人民革命党事件である。これは朴正熙政権が1964年と1974年の二度にわたり捏造したスパイ事件で、特に1974年の「人民革命党再建案事件」では、在野の民主化人士らを北朝鮮工作員とでっち上げて逮捕・起訴し、8名に死刑判決が下された 。同事件では1974年5月、非常軍法会議(軍事法廷)の検察官が国家保安法・反共法・内乱陰謀罪等で21名を起訴し、死刑8名・長期懲役多数という極刑が言い渡され、8名はわずか19時間後に処刑された 。これは韓国司法史上「暗黒の日」と呼ばれる(1975年4月の処刑)事件であり、検察(軍法会議検察部を含む)が無実の市民を抹殺することに加担した典型例である。捜査段階から中央情報部が主導し、検察は追認機関にすぎなかったとはいえ、その役割は体制の違法行為を合法の仮面で覆い隠す点にあった 。

また、1974年には全国民主青年学生総連盟事件(民青学連事件)が発生した。これは全国的な学生民主化デモを朴政権が北朝鮮の指示による内乱陰謀と決めつけた事件で、政権は非常措置第4号を発動して関係者を一斉検挙した 。検察(非常軍法会議検察部)は民青学連関係者ら約180人を軍法会議に起訴し、主謀格の学生や在野人士(詩人の金芝河〈キム・ジハ〉、元大統領尹潽善〈ユン・ボソン〉、カトリック司教池學淳〈チ・ハクスン〉など)に死刑・無期・重刑判決を下した 。これらは後に特別赦免で釈放されたものの、検察が学生運動や宗教界の良心的指導者まで反乱罪で処罰しようとした事実を示している。

言論・野党への弾圧: 言論弾圧の面でも、検察は重要な役割を果たした。朴正熙政権は維新体制に反対するビラ配布や政権批判発言を厳禁とする大統領非常措置を連発し(1974年~1975年にかけて計9次)、その違反者を多数逮捕した。これらの違反事件の起訴も検察の仕事であり、緊急措置第9号(1975年)違反では憲法改正・撤廃を主張する行為等に15年以下の懲役という苛烈な処罰規定に基づき、数百名規模の学生・知識人が起訴されたとされる 。例えば、維新批判論陣を張った東大門教会事件では朴政権に批判的な牧師らが一斉起訴され、有罪判決を受けた。全斗煥政権下でも、報道機関の統廃合(1980年)や言論検閲強化により口封じが進められ、政権への批判は封殺された。さらに野党政治家にも弾圧が及び、金大中・金泳三ら民主化運動指導者は内乱陰謀罪や政治活動禁止措置の対象となった。特に金大中は1980年に光州事件の黒幕に仕立て上げられ、軍法会議で死刑を言い渡されている(後述)。これらのケースでは、検察は必ずしも主導的立場ではなかったものの、反体制派を起訴し有罪に持ち込む法的手続の執行者として不可欠な存在であった。

拷問の黙認と司法手続の形骸化: 軍事政権期には、取り調べ段階での拷問や脅迫が日常化していた。南山地下の中央情報部拷問室や、警察の対共捜査施設(代表例:南営洞大公分室)で得られた自白調書は、しばしば証拠として法廷に提出された。検察官は本来、違法な捜査に対して是正を図る立場であるが、この時代にはむしろ捜査機関の不法行為に協力し、拷問被害を訴える被疑者の申立てを無視・放置した 。南営洞拷問室で作成された調書をそのまま公訴状に転用するために、検察は目と耳を塞いだとも評される 。取り調べの場所が警察から検察庁に移っても、被疑者が暴力への恐怖から逃れることはできなかった 。このように、検察は違法捜査を黙認し、人権侵害に積極的に加担した。その結果、政治事件の多くで自白偏重の有罪判決が下り、法の適正手続は完全に形骸化した。

代表的事件に見る検察の役割

光州事件(1980年5月)と検察

事件の概要: 1980年5月に発生した光州民主化運動(光州事件)は、新軍部(全斗煥少将ら)が非常戒厳令を全国に拡大し民主体制を踏みにじったことに抗議して、市民・学生が蜂起した事件である。軍は光州に空挺部隊を投入してデモ参加者を武力鎮圧し、市民に数百人規模の死傷者が出た 。これは独裁政権による大規模な暴力弾圧事件であり、検察を含む法曹界にも深い影を落とした。

検察の対応: 光州事件当時、戒厳令下であったため、通常の検察・裁判所の機能は大幅に制限されていた。軍法会議が開かれ、捕らえられた市民の一部や事件の首謀者とされた人物が軍の司法手続に付された。その中には在野指導者の金大中(後の大統領)も含まれていた。金大中は事件発生前の5月17日に他の政治人らと共に逮捕され 、内乱陰謀罪で起訴された。軍法会議の検察官(軍検察)は金大中に死刑を求刑し、同年9月に死刑判決が宣告された(後に米国などの圧力で無期懲役に減刑) 。このプロセスで一般検察官は直接関与していないが、非常戒厳体制への協力という点で検察全体が沈黙を守った。光州で起きた市民虐殺に対し、当時の検察は責任者を起訴するどころか、戒厳軍の発表をそのまま追認し、市民側に責任転嫁する政府宣伝に加担したと評価される 。戒厳司令部は光州の抗議を「不純分子や北の間者による騒乱」と歪曲し 、これが金大中らの起訴を正当化する口実とされた。検察組織はこの公式見解に異を唱えることはなく、結果として国家権力の暴力を免責し被害者を犯罪者に仕立てることに寄与した。

その後: 光州事件の真相究明と責任追及は、軍事政権下では一切行われなかった。民主化後の1990年代に入ってようやく再捜査が行われ、1995年に特別法の制定とともに検察は全斗煥・盧泰愚ら事件責任者を起訴した (詳細は後述)。これは皮肉にも、軍事政権期に果たせなかった検察の使命を後年になって実行したものであった。

非常措置と検察:維新体制下の政治弾圧

朴正熙の維新体制期(1972–1979年)は「緊急措置の時代」と呼ばれるほど、しばしば大統領非常措置(緊急措置)が発せられた 。緊急措置第1号・第4号では維新憲法の改正・批判を一切禁止し、違反者を長期懲役に処する規定が定められた 。これら非常措置の施行にあたり、検察は違反者の検挙・起訴を全面的に担当した。維新体制への批判ビラや集会に関与した学生・知識人・政治家らは、令状なしの逮捕・起訴を次々と受け、通常の司法手続きを経ずに抑圧された(多くは軍法会議での審理)。上述の民青学連事件や人民革命党事件はいずれも非常措置に基づく大規模弾圧であり、検察がその遂行に深く関与した例である。ことに緊急措置第9号(1975年)は維新体制に反対する一切の言論・行為を禁止し、それ自体を報道することも禁じる内容であった 。朴正熙政権後半の国民生活は「緊急措置第9号の時代」とまで称され、検察はこの違反者の取り締まりに奔走した。1970年代後半には数千件もの緊急措置違反事件が発生し、起訴された者の中には作家・詩人・宗教家から野党政治家まで含まれた。検察は治安当局(KCIAや警察)が作成した捜査資料をもとに起訴状を乱発し、法廷で厳罰を求めることで言論の自由と市民の基本的人権を圧殺したのである 。なお、緊急措置違反で有罪となった市民の多くは、民主化後に無罪と認定され名誉回復が行われている。これは当時の検察による公訴提起が法的正当性を欠いていたことを示すものに他ならない。

軍政との協調体制と抑圧装置としての検察

以上に見たように、軍事独裁期の検察は法制度の内側から体制を支える政治的下部装置として機能した。その協調体制の形成には以下のような経緯と特徴が認められる。

政権中枢との一体化: 朴正熙・全斗煥政権はいずれも軍人出身者による独裁であり、統治に抵抗する勢力を排除するためには手段を選ばなかった。そうした統治手法に法の正当性を与えるべく、検察幹部は政権中枢に取り込まれた。朴正熙政権期の例として、申稙秀(シン・ジクス, 1927–2001)という人物が挙げられる。申稙秀は朴の側近検事で、公安事件で「実績」を上げて頭角を現し、遂には検事総長と中央情報部長を兼任するまでに至った 。彼は1974~75年の人民革命党事件・民青学連事件を主導し、司法の非独立化を象徴する存在であった。申稙秀は刑事司法の大原則である罪刑法定主義・不遡及原則さえ無視し(4・19革命以前の行為まで遡って処罰する判決を強行)、露骨に軍事政権の下請け役を演じた 。このように検察首脳が政権の治安責任者と渾然一体となることで、検察組織全体が権力の僕に成り下がったのである。全斗煥政権でも、大統領秘書室や国家安全企画部(KCIAの後身)に検察出身者が多数起用され、**「政権の番犬」**として検察官が配置・利用された 。この趨勢は権威主義体制の末期まで続いた。

司法内部の抵抗と粛清: 一方で、検察のこうした動きに対して司法部内部から抵抗も起こった。特筆されるのが1971年の第一次司法部波動である。朴正熙政権下、政治事件で無罪判決を出す勇気ある判事たちがいたが、政権は彼らを排除すべく検察に命じて逆に判事を逮捕させようとした。1971年7月、ソウル地方法院(地裁)で学生事件の無罪判決を続けて言い渡していた李範烈(イ・ボムリョル)判事と崔公運(チェ・ゴンウン)判事に対し、突如検察が逮捕状を執行する事件が起きた 。司法官が司法官を逮捕するという前代未聞の事態に全国の判事が集団反発し、朴大統領はついに捜査中止と関与検事の人事異動を余儀なくされた 。この出来事は司法の独立を守ろうとする最後の抵抗とも言われるが、朴正熙は翌1972年の維新クーデターで徹底的に司法権を掌握し、先述のように多数の判事を追放して反対勢力を封じ込めた 。こうした粛清には当然検察も関与しており、判事の職務上の行為を問題視して捜査対象に仕立てるなど、政権と一体となった司法部統制が行われた 。その結果、軍事政権期後半には司法・検察内部からの公然たる抵抗はほぼ見られなくなり、検察制度は独裁の抑圧体制に組み込まれた一翼をなし続けたのである。

民主化以降との比較・検察制度の評価

民主化と検察の変容: 1987年の民主化以降、韓国の検察制度は大きな転換期を迎えた。第6共和国憲法(1987年)は非常措置権の制限や人権規定の充実を図り、司法の独立性も一定程度回復された。軍法会議による民間人裁判は廃止され、国家保安法の運用も徐々に慎重になった。検察はもはや公然と政敵をでっち上げの罪で処罰することはなくなり、政治的表現の自由も拡大した。実際、軍事政権期に有罪とされた政治犯の多くが再審で無罪となり、誤った起訴に対する名誉回復と補償がなされている 。また、光州事件の責任者起訴(1995年)や過去の人権侵害事件の真相究明(真相・和解委員会の活動など)に検察が関与するなど、**「正義の回復」**に寄与する場面も現れた 。こうした動きは、検察が民主化に順応し、法の支配と人権擁護という本来の使命に立ち戻ろうとする努力とも評価できる。

残された課題: しかし、民主化後の検察制度にも課題は残存した。長期にわたる中央集権的な組織文化や政治権力との密接な関係は一朝一夕には改まらず、政権交代時に検察人事が刷新されるたび、依然として「政治検察」との批判が付きまとった 。例えば、ある政権期には政敵に対する捜査が激化し、別の政権期には逆にその捜査が尻すぼみになるといった現象が繰り返された。また、朴槿惠・文在寅政権期(2013–2022年)には検察改革が大きな政治争点となり、検察の捜査権縮小や高官不罪捜査処の新設などが試みられた。これらは、軍事政権期から続く検察権力の肥大化に対する民主社会からの修正要求とも解釈できる。実際、軍政期に権限を拡張した検察特別部門(公安部・特捜部)は民主化後もしばらく強い影響力を保ったが、文民政権の時代に徐々に縮小・再編が行われ、2019年には象徴的な**大検公安部の廃止(「公訴部」への改称と職務縮小)**に至った 。これは、公安検事が幅を利かせた独裁期への決別を示す動きといえるだろう。

評価と結論: 朴正熙・全斗煥の軍事政権期における検察制度は、その法制度上の特徴(強大な統制権限と非独立性)ゆえに、政治的抑圧の尖兵として機能した。「捜査と起訴の独占権」を有する検察組織が政権の意のままに動いた結果、法による統治は独裁の手段に堕し、民主主義と人権は踏みにじられた 。この時代の経験は、検察制度に対する韓国社会の長年の不信感につながり、民主化以降も繰り返し検察改革が論じられる背景となっている。同時に、独裁期の検察官たちによる不法行為の記録と反省は、現代において法曹が政治権力といかに向き合うべきかを問い続ける教訓でもある 。民主化後の韓国検察は徐々にではあるが司法本来の役割を取り戻しつつあり、近年では市民社会の監視の下、その権限と責任のバランスを模索している。軍事政権期の検察制度は独立性なき危うさを露呈したが、その克服の歩みは今なお進行中であり、過去の過ちを繰り返さないための制度的保障と文化的変革が引き続き求められている。

参考文献・資料(韓国語原資料の書名も併記)

  • 하태훈・김희수・오창익・서보학『검찰공화국, 대한민국』(삼인, 2011年) – 韓国検察の歴史と権力構造を分析した共著書。
  • 성한용「검사들이 다스리는 대한민국」(『한겨레』2024年8月) – 軍事独裁期から現代までの検察と権力の関係について論じたコラム 。
  • 김덕련「박정희 시대, 정치 검찰의 ‘소신 판사 죽이기’ 대작전」(『프레시안』2015年10月25日) – 朴正熙政権期の司法介入事件(1971年司法部波動)についての解説記事 。
  • 자로소 (ブログ)「공안사건 조작과 관련 검사들」(2023年5月6日投稿) – 権威主義時代の公安事件と検察官の関与を振り返る記事 。
  • 남영동 대공분실 고문실태 조사연구』(진실의힘, 2012年) – 韓国民主化運動記念事業会編、軍政期の拷問実態と検察の対応についての報告書 。
  • Wikipedia日本語版「大韓民国第五共和国」および韓国語版「5·18 광주 민주화 운동」 – 第五共和国憲法や光州事件に関する基礎的情報 。
  • 黄皓📝「現代韓国憲政史における国家緊急権」(『立命館法学』2013年) – 韓国の非常措置権と維新体制下の緊急措置に関する研究。緊急措置の乱用による人権侵害について分析 。
  • 真実和解を 위한過去사정리위원会『真実と和解』最終報告書 (2009年) – 権威主義時代の司法・検察の過ちを記録した韓国政府の公式報告書。 (本文中で引用した各種事例の背景情報源として参照) 。

以上の文献・資料を踏まえ、本稿では軍事政権期の検察制度の構造と役割を考察した。検察が果たした抑圧的機能に対する批判的検証は、韓国における法と民主主義の関係を理解する上で極めて重要である。今後もこの歴史的教訓を活かし、検察制度の在り方が不断に見直されることが期待される。

Published by Atsushi

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