韓国では近年、強大な権限を持つ検察の権力を見直す「検察改革(검찰개혁)」が政治・社会の重要争点となってきました 。文在寅政権(2017〜2022年)と尹錫悦政権(2022〜現在)は、この検察制度改革をめぐり対照的なアプローチを取り、捜査権限の配分や新機関の設立を巡って激しい議論と政治的対立が生じました。本レポートでは、両政権期における検察改革の内容と論争を包括的にまとめます。
文在寅政権における検察改革の推進
検察の捜査権縮小と警察との権限分離
文在寅政権は「検察の力抜き(검찰 힘빼기)」を掲げ、長年続いた検察の捜査支配構造を改める大改革に着手しました 。歴代政権で検察は捜査と起訴を独占し、警察捜査に対する強力な指揮権を持っていました。しかし朴槿恵政権末期の国政介入事件や検察の「 봐주기 수사(手心捜査)」に対する国民不信が高まったことを背景に 、文在寅大統領は検察と警察の関係を民主的に再編することを公約しました 。
その具体策が**検察・警察の捜査権調整(검·경 수사권 조정)**です。2018年6月に法務部長官と行政安全部長官が捜査権調整案に合意し 、与野党協議を経て刑事訴訟法と検察庁法の改正案が国会で可決されました(2020年1月通過、同月公布) 。これにより2021年1月1日から新たな捜査制度が施行されています 。
改正法の主な内容:
- 検察の捜査指揮権の廃止: 検察官が警察に個別事件の捜査指示を出す権限(수사지휘권)が撤廃され、警察は1次捜査の主体としての自律性を持つようになりました 。
- 検察の直接捜査範囲の限定: 検察官が自ら捜査を開始できる事件は、従来の「あらゆる犯罪」から6大重大犯罪に限定されました 。6大犯罪とは「腐敗犯罪・経済犯罪・公職者犯罪・選挙犯罪・防衛事業犯罪・大型惨事」で、さらに一定規模・金額以上の場合に限るなど制約も付されています 。それ以外の事件について検察は原則直接捜査できず、警察が捜査を完了した後に補充捜査や起訴を担当する役割へとシフトしました。
- 警察の1次捜査権・終結権の付与: 警察は原則すべての事件について一次捜査を遂行し、嫌疑なし等の場合に送検せず不送致処分で終結できる権限を得ました。ただし被害者や告発人は検察に異議申請でき、検察が事件を引き取る仕組みも整えられました 。
- 検察の役割転換: 検察は公訴提起(起訴)と裁判活動に専念し、人権擁護と法秩序維持に徹する「公訴官」としての性格を強めることが期待されました 。同時に警察捜査に対しては事後的に司法統制する役割(補充捜査要求や裁判所を通じた令状審査など)に留めることで、相互牽制の関係を築く狙いでした 。
文政権下で推進されたこれらの改革により、「捜査と起訴の分離」という長年の課題に大きく近づいたと評価されています 。実際、5年間の検찰개혁 입법은(検察改革立法は)未完の部分もあるものの、「検察官を公訴官本来の役割に忠実にさせ、警察捜査に対する法治国家的統制を図る」という目標に非常に近い状態に到達したとする分析もあります (『문재인 정부의 검찰개혁입법의 주요 내용과 평가』조기영, 2022)。一方で検察・野党は一貫して強く反発し、警察権力の肥大化や重大事件捜査の空白を懸念する声も上がりました 。保守系紙の朝鮮日報(조선일보)は、捜査権調整後に事件処理の遅延や検挙率低下が起きていると報じています。例えば2019年と2023年を比較すると、重大犯罪1件あたりの平均処理日数が139.5日から264.8日へ約1.9倍に延び、起訴人数も減少したと指摘されています 。もっとも、こうした指摘に対しては「改革初期の一時的混乱」や「警察・検察の協力体制整備で改善可能」との反論もあります 。
高位公職者犯罪捜査処(公捜処)の設立と運用
文在寅政権による検察改革のもう一つの柱が、**高位公職者犯罪捜査処(공수처)**の新設です。これは大統領や国会議員、判事・検事など高官の汚職・不正を専属管轄で捜査・起訴する独立機関で、長年「権力型腐敗」根絶の切り札として議論されてきました 。検察が自らの不祥事や政権高官の犯罪を十分追及してこなかったとの世論の不満を受け、文在寅政権与党は公捜処設立を強力に推進しました 。
公捜処の設置法案は与党・共に民主党などの主導で2019年12月30日に国会を通過しました (「고위공직자범죄수사처 설치及 운영에 관한 법률」いわゆる「공수처법」)。しかし、野党の自由韓国党(後の国民の力)は強く反発し、法案審議ではフィリバスター(合議阻止の長時間演説)や物理的抗議も行われました 。最終的に与党は国会先進化法の「ファストトラック」手続きを活用して法案採決に踏み切り、野党議員の大半が退場する中で可決されるという強行採決となりました 。この経緯から、公捜処法成立自体に「与党の暴走」との批判が残りましたが、一方で市民社会団体や進歩系メディアは「検察への有効な牽制機関が誕生した」と歓迎しました 。
公捜処は2020年7月に発足予定でしたが、初代処長の人選をめぐり与野党が対立し、推薦委員会での野党側拒否権行使などにより半年以上遅延しました。最終的に2021年1月に金鎭旭(김진욱)処長が任命され、1月21日付で公捜処が正式に業務を開始しました 。公捜処は25名の検事と40名の捜査官という小規模体制でスタートし、検察・警察と並ぶ第三の捜査機関として試行錯誤を重ねました。
公捜処の管轄と機能: 大統領府高官、国会議員、判事・検事、警察高級幹部など約7,000人規模の高位公職者とその家族が対象となり、職権乱用や収賄、選挙犯罪など特定の重大犯罪を扱います 。公捜処は原則として独立機関と位置付けられ、大統領や行政からの中立性を保つよう制度設計されています(処長人事は野党同意を要するなど)。公捜処が事件を立件した場合、起訴権も有していますが、起訴後の維持は検察に委ねる形です。また公捜処が捜査中の事件について、同一事件を検察・警察が 수사하지 못하도록する規定も設けられました。これは高官不正事件が複数機関の争奪となり混乱するのを避けるためです。
運用の現状: 発足から約2年半が経過した時点で、公捜処の捜査実績は期待に比して限定的だと評価されています。例えば2021年から2024年6月までに公捜処が受理した案件は数千件にのぼりますが、起訴に至った件数はごくわずかでした。朝鮮日報の調査報道によれば、公捜処が直接起訴した事件は発足後4件程度に留まり、それまでに投入された予算総額約813億ウォンを件数で割ると「1件あたり200億ウォン超」という極端に低いコストパフォーマンスになると指摘されています 。実際、2022年上半期までに受理した約3300件の通報・告発のうち起訴に漕ぎつけたのは1件のみとのデータもあります 。扱った事件としては、尹錫悦検事総長(当時)側近の疑惑(いわゆる「告発事実調査」事件)で関与検事を起訴した例や、前政権高官の一部事件があるものの、目立った大物立件は皆無です。このため公捜処には「税金の無駄遣い」「有名無実の機関」といった批判が寄せられ、保守系野党(当時)からは廃止論も公然と語られました 。一方、進歩系メディアや与党(当時)は、公捜処が検察・警察から独立して高官犯罪を捜査する意義自体は大きく、組織立ち上げ直後の人員不足や捜査ノウハウ欠如が原因で成果が出ていないだけだと擁護しました 。公捜処自身も2022年3月に**「全面事件登録主義(전건입건제)」**を導入し、それまで告発内容の審査で門前払いしていた案件も一旦正式事件として受理して調査する運用に改めるなど、改善策を講じています 。しかしそれでも公捜処受理事件の70%以上は調査後「공람종결(閲覧のみで終了)」となり、正式捜査入りした案件のうち97.9%が不起訴で終わる状況で 、抜本的な改革・強化が課題とされています。
改革を巡る政治的対立と社会的論争
文在寅政権期の検察改革は、韓国の政治・社会を二分する激しい論争を引き起こしました。その核心には**「権力機関の民主的統制 vs 犯罪捜査能力の確保」**という価値観の対立があります。
まず文在寅政権与党(共に民主党)と保守系野党(自由韓国党〜国民の力)は、改革法案をめぐり終始鋭く対立しました。2019年の公捜処法・捜査権調整法案審議では、与党が国会法の強行採決手続きを使ったのに対し、野党は委員長席占拠や議場乱入といった実力行使で抵抗し、国会史に残る物理的衝突が起きました 。メディアも与党系のハンギョレ(한겨레)やオーマイニュースは「検察の恣意的権力を解体し民主主義を進展させる改革」と支持する一方、保守系の朝鮮日報や中央日報は「政権が捜査逃れのため検察の牙を抜こうとしている」と批判的に報じました 。世論も真っ二つに割れ、大規模な集会が相次ぎます。2019年秋、改革の旗手と目されたチョ・グク法務部長官が自身と家族の不正疑惑で検察捜査を受け辞任に追い込まれると(いわゆる「チョ・グク事態」)、検察を糾弾し改革完遂を求める市民デモと、チョ・グク氏を糾弾し現政権の偽善を批判するデモが同時並行で行われ、社会的対立は最高潮に達しました 。
こうした中、文在寅政権と検察トップの対立も表面化します。文在寅政権はチョ・グク氏辞任後も後任法務部長官に強硬な秋美愛(チュ・ミエ)氏を起用し、捜査権縮小など改革を推進させました 。一方で2019年7月に文大統領自ら任命した尹錫悦検事総長(後の大統領)は、政権関係者の疑惑捜査を強行するなど独立性を示し、秋長官と激しく衝突しました。2020年には秋長官が尹総長の側近検事たちを大規模人事異動で地方に飛ばし、さらに尹氏本人を停職処分とする前代未聞の懲戒を試みましたが、尹氏は行政訴訟で処分を部分的に覆し職務復帰する事態となりました 。結局、尹錫悦検事総長は任期途中の2021年3月に辞職し野党からの大統領選出馬に転じます。これら一連の政権 vs 検察の対立は国論を二分し、検察改革が単なる制度論争に留まらず政治権力闘争の様相を帯びていきました。
文在寅政権末期の2022年4月、検察改革は最後のクライマックスを迎えます。大統領選で尹錫悦候補が当選し政権交代が確定した直後、与党・共に民主党は新政府発足までの残りわずかな期間で「検察の捜査権完全剥奪(검수완박)」を成し遂げるべく電撃的な立法に踏み切りました 。これは前述の検察直接捜査権6大犯罪をさらに絞り2大犯罪(腐敗・経済のみ)に限定する法改正です 。与党は「政権が交代すれば検察改革が頓挫しかねない。検察のクーデターを防ぐためにも急がねばならない」(民主党・敏炯培〈민형배〉議員) と主張し、強行採決の構えを見せました。4月中旬には国会法制司法委員会で野党議員の欠席を補うため、無所属議員への差し替え(민형배議員の**「偽装離党」工作)が行われたことが発覚し大きな論争となりました 。野党・国民の力は「立法クーデターだ」と猛反発し、国会本会議でフィリバスターを試みましたが、与党は会期終了をもって討論を強制終了させる奇策で突破しました。こうして2022年4月30日に検察庁法改正案、5月3日に刑事訴訟法改正案が与党単独で可決・成立**し、文在寅政権の検察改革は幕引きとなりました 。
この「검수완박法」に対しても賛否は真っ二つに割れました。民主党など推進派は「検察の捜査権をごく一部残しつつ、実質的に警察や公捜処等へ移管する最終段階の改革」と称賛しました。しかし国民の力など反対派は「明らかに拙速であり、副作用の検証が不十分だ」と批判し、違憲訴訟や国民投票要求まで飛び出しました 。実際、法案審議過程での与党の手続きに瑕疵があったとして、2023年3月に憲法裁判所は「偽装離党など一部過程は違憲」と認定しました。ただし法自体の効力は「検事の権限侵害とは言えない」として有効と判断されています 。いずれにせよ、文在寅政権の5年間で韓国の刑事司法制度は大きく書き換えられ、検察・警察・新設公捜処の関係は新たな段階へと移行しました。
尹錫悦政権下での検察権限の見直しと現在の状況
2022年5月に発足した尹錫悦政権は、文政権期の検察改革に対し方向転換とも言える姿勢を示しています。尹錫悦大統領自身が元検事総長であり、就任前から「過度な捜査権制限は国民の安全を脅かす」として改革の見直しを公約していました 。そのため尹政権では検察の権限**復元・強化(검수원복)**の動きが顕著です。
まず象徴的だったのが、発足直後の検察庁法施行令改正による対応です。前述の検察直接捜査「2大犯罪限定」規定は2022年9月に施行予定でしたが、その直前の8月に法務部(尹政権の韓東勳〈한동훈〉長官)は施行令(大統領令)を改正し、検察が引き続き一定要件下で広範な重大犯罪を捜査できる余地を残しました 。具体的には、公共機関の腐敗事件や経済犯に付随する犯罪などを 폭넓く「腐敗・経済犯罪」の範囲に含める解釈を示したり、選挙犯罪や警察が手に余る重大事件を検察が担当できる条項を設けたりする形で、法律の字面を覆さない範囲で検察捜査権を事実上拡大する内容でした 。与党・国民の力は「急造された欠陥法を合理的に補完する措置だ」と擁護しましたが、民主党など野党は「政令による法律の骨抜き」であり違法だと非難し、国会で施行令是正を要求する決議を採択する事態となりました 。しかし尹政権はこの措置を撤回せず、検察は引き続き6大犯罪全てで捜査開始が可能な運用が維持されています 。これは事実上、文政権末に成立した検察庁法改正(검수완박)の効力を半減させるもので、「검수완복(検察捜査権の原状回復)」と呼ばれました 。市民団体「参与連帯(참여연대)」は「尹錫悦政権は違法な施行令統治で検察権力の再拡大を図っている」と批判しています 。
さらに尹錫悦大統領は、大統領府(現・大統領室)や政府高官に多数の検察出身者を起用しました。初代秘書室長や民情首席秘書官(民情首席の廃止に伴い新設の官職)に至るまで検事出身者が占め、「검찰공화국(検察共和国)」との揶揄を招きました 。法務部長官に任命された韓東勳氏もエリート検事出身で、就任以降、文政権時代に進められた法務部の「脱検察化(非検事の要職登用)」を見直し、主要ポストに検事を復帰させています。加えて尹政権与党は、法務部長官の検事総長指揮権廃止も公約通り実行に移しました 。検察庁法第8条に定められた法相の個別事件指揮権は、文在寅政権下で秋美愛長官が尹総長に行使し大きな混乱を招いた経緯がありますが、尹政権は2022年7月に「今後この権限を発動しない」と宣言し事実上凍結しました(法改正も検討されましたが、国会勢力の関係で未了)。これは一見検察に対する統制手段を手放すようにも映りますが、裏を返せば「検察が政治権力から独立して自由に捜査できる環境」を整える施策であり、尹大統領の信条である検察尊重の姿勢を示すものです 。
一方、尹政権下でも公捜処は法改正されず存続していますが、その存在意義はますます揺らいでいます。与党・国民の力は大統領選公約で公捜処廃止または他機関への統合を掲げており、2023年には公捜処法改廃案も国会提出されました。しかし野党・民主党が国会多数を占める中で法改正の見通しは立たず、尹政権は公捜処を事実上「干からびさせる」戦術をとっています。具体的には予算や人員の大幅増員要求を認めず、処長人事でも強い態度を見せることで、公捜処の活動を低調なまま据え置いているとの指摘があります 。2024年度予算では公捜処予算は微増となったものの、依然捜査官欠員が埋まらない状態が続いています 。公捜処は尹政権下で大統領本人に関する疑惑(2023年の「監査院メール事件」で一時尹大統領に対する逮捕状請求を検討する事態 )などにも着手しましたが、結局強制捜査すら満足に行えず「無能」と批判される結果に終わっています 。これらの状況から、公捜処は存続こそしているものの、尹政権下で有名無実化が進んでいると評されています。
結論: 検察改革をめぐる評価と展望
文在寅政権期に断行された検察改革(捜査権縮小・公捜処設立)は、韓国の刑事司法に歴史的変化をもたらしました。それは「強大な검찰(検察)権力の分散と民主的コントロールの強化」という点で一定の成果を収めたと評価できます 。捜査と起訴の分離によって検察の恣意的権力行使を抑制し、警察・公捜処との三角牽制構造を築いたことは、大統領選公約にも掲げられた国民的要求への回答でした 。一方で、副作用として捜査現場の混乱や事件対応の遅れ、警察の増大する権限への不安も生じています 。特に公捜処の不振は、改革推進派にとっても誤算であり、「虎の穴」に期待した新機関が機能不全に陥っている現状は改善が必要です。
尹錫悦政権は前政権の改革を事実上巻き戻す方向に舵を切りました。これは「검찰改革の逆行」だとして前政権与党や進歩陣営から強く批判されています 。彼らは尹政権下で検察が再び無限定の権力を振るい、政敵捜査に偏重していると懸念します。一方、尹政権・与党側は「必要な捜査まで封じる過剰な改革を是正しているだけ」と反論しており、検察と警察の役割分担を現実に即して調整することは政権の責務と主張します 。この対立は、2024年4月の国会総選挙を控えてさらに激化する見通しです。もし与野党の勢力図に変化があれば、公捜処の存廃や追加改革の行方も左右されるでしょう。
韓国の検察改革は、単なる制度改編に留まらず、司法の公平性や権力のチェックアンドバランス、さらには民主主義の成熟度を問う国家的テーマとなっています。文在寅政権から尹錫悦政権に至るまで、その方向性を巡って振り子のように揺れ動いている現状ですが、最終的に国民が望む「公正で信頼できる捜査・起訴体制」とは何か、模索が続いています。今後も韓国社会において検찰개혁をめぐる議論は継続し、その帰趨は2020年代韓国の法制度の姿を大きく形作ることになるでしょう。
参考にした主な資料・記事(韓国語):『문재인 정부의 검찰개혁입법의 주요 내용과 평가 』, 대한민국 정책브리핑「검·경 수사권 조정」解説 , 연합뉴스「[2022결산] 검수완박 대 검수원복」 , 연합뉴스「법무부·검찰 ‘검수완박’ 헌법소송 각하…법 효력 유지」 , 한겨레신문・오마이뉴스など進歩系メディアの記事 , 조선일보「공수처, 1년 반 동안 3300건 접수해 기소 딱 한 건」 , 뉴데일리「”공수처는 혈세 먹는 하마”…」 , 참여연대 논평 など。