正直に書く。
最近、「若者に高市総理が支持されている」という話を目にするたび、強い違和感を覚える。
不快感と言ってもいいし、もっと率直に言えば、吐き気に近い感覚だ。
理由は単純だ。
今の若者はリベラルで、そのリベラルさをもって高市総理を支持している
──もしそれが本当だとしたら、あまりにも話が噛み合っていないからだ。
「若者=リベラル」という前提は、もう壊れている
かつて「若者はリベラル」というのは、かなり分かりやすい図式だった。
権威を嫌い、多様性を尊重し、国家や軍事には距離を取る。
少なくとも、そうした傾向があると理解されてきた。
しかし、今の若者を見ていると、その前提自体がすでに成立していないように思える。
ジェンダーや表現の自由には比較的寛容である一方、
国家・安全保障・秩序といったテーマには、むしろ強い関心を示す。
曖昧さよりも「強さ」や「分かりやすさ」を好み、
対立構造がはっきりした言説に安心感を覚える。
これは、リベラルでも保守でもない。
価値観が混ざり合った、かなり歪なハイブリッドだ。
支持されているのは「思想」ではなく「スタイル」ではないか
高市総理が支持されている理由を、政策や思想の中身から説明しようとすると、どうしても無理が出る。
むしろ、支持されているのは以下のような要素ではないだろうか。
・断定的な言葉遣い
・敵と味方をはっきり分ける構図
・迷いのなさ、強気さ
これは、政治思想というよりもスタイルの問題だ。
YouTuberやインフルエンサーが支持を集める構造と、非常によく似ている。
中身が右か左か、リベラルかどうかは二次的で、
「強そう」「言い切ってくれる」「不安を断ち切ってくれそう」
そうした感覚が消費されている。
本当にリベラルなら、あんな立ち位置にはならない
ここで、どうしても言っておきたい。
本当にリベラルな政治家が、
・極端な国家主義的発言を繰り返し
・分断を前提とした言説を好み
・特定の政治路線の「純度」を担保する役割を期待される
──そんな立ち位置に立つだろうか。
答えは、ほぼ自明だと思う。
高市総理が評価されてきた理由は、
包摂性でも、熟議の姿勢でも、社会的弱者への想像力でもない。
忠誠心、強硬さ、対立を恐れない態度。
それは、リベラルの対極にある資質だ。
気持ち悪さの正体は、「言葉の空洞化」だと思う
だから、私が感じている不快感の正体は、
「高市総理が右寄りだから」ではない。
リベラルという言葉が、意味を失ったまま使われていること。
その軽さ、その無自覚さが、どうしても耐え難い。
リベラルとは、本来もっと厄介で、面倒で、勇気がいる立場だったはずだ。
分かりやすい敵を作らず、
簡単な答えを提示せず、
弱い側に想像力を向け続ける態度だったはずだ。
それが今、「強そう」「スッキリする」「管理してくれそう」という理由で消費されている。
この違和感を、見なかったことにしたくない
若者が支持しているから正しい、という論理には与したくない。
支持率があるから安心、という話でもない。
この違和感は、たぶん間違っていない。
少なくとも、考えることを放棄していない証拠だと思っている。
気持ち悪いと感じる自分の感覚を、
「時代についていけないから」と切り捨てたくない。
だから、こうして書き残しておく。
これは断定でも結論でもない。
ただの記録であり、問いだ。
それでも、問いを放棄しないことだけは、
今の空気の中で、せめてものリベラルでありたいと思う。