「サランへ」という。
사랑해、である。
一般的には「愛してる」と訳される。
だが日本語だけが母語の人は胸に手を当てて考えてもらいたいのだが、
人生で何回くらい「愛してる」と口にしたことがあるだろうか。
少なくとも私は一度も無い。
嘘くさい。
本当じゃない気がする。
そんな感覚は無いだろうか?
それもそのはずで、日本語には「愛する」という言葉は元々なかったのだ。
そんなわけないって?
そもそも愛という字は一般的にはせいぜい「めでる」という訓読みくらいしか無い。
「アイ」は音読みであり、それは中国語の諸方言と比較してみても分かる。
よく指摘されるように、「I love you」のような英語を無理やり日本語に訳すために、19世紀に大急ぎで作った言葉の一つが「愛する」なのだ。
だから嘘くさい、本当じゃない感じがする、という言語感覚は正しい。日本語として定着しきっていないのだ。
一方韓国語の사랑해は違う。
家族同士でも使える。息子よ、사랑한다. お母さん、사랑해.
友達同士でも使える。사랑한다, 友よ!
当然、恋人同士でも。자기야, 사랑해.
何なら学校の先生にも使える。선생님 사랑해요~! これは「先生ウェーイw」くらいの語感だろうか。
こうして사랑해の用法を日常会話で学んでいくにつれ、私はそもそも日本語に사랑に相当する言葉は無いことを確信した。
だが、ここで一つの問題にぶつかる。
사랑が日本語に無いというのは、 実は日本語人は人を사랑できない人たちなのではないだろうか?という疑念である。
サピア=ウォーフの仮説というものがある。これは、人間は言語を通して世界観を持つ、という考えだ。
言語は、人が世界を認識する「窓」のようなものだとすると、
サランという窓のない日本人は、果たして韓国人のように人に接することができるのだろうか?
そういう疑念である。
実はこの疑念、韓国語人だけでなく、英語人も持っているという印象がある。
かつてツイッターで見かけたが、
・日本人はThank youのつもりで「すいません」と言い、
・日本人はI love youのつもりで「ありがとう」と言う。
という趣旨の指摘を、日本人と結婚して日本に住む英語人がしていたという。
やはり、I love you に1対1で相当する日本語が無いという感覚を、英語人も持っているのだろう。