「虚業」と「実業」が融合しつつあるという話:IT企業が製造業に本格進出する時代を考える

英『エコノミスト』誌の記事を読んで考え込んでしまった。「もしかしたら、バリュー(価値株)の時代が戻ってきたのかも知れない」という内容である。 ファイナンスの教科書のような丁寧な記事だが、個人的に一番勉強になったのははっきりとテック株(いわゆるGAFA等のIT企業銘柄)が過大評価されていると認識されていることである。テック企業の無形資産は空前の好況を(金融市場に)もたらしたが、根本的なところでは価値分析の意義は失われていない。もちろん、バリュー投資を提唱したグラハムらの活躍した20世紀初頭とは比較にならないほど現在の金融市場は複雑化したし、そのアップデートは誰かがしなければならないのだろう。 さて、こうしてIT企業の株価がうなぎ上りに上がり続けてきた金融市場だが、製造業の世界では、ITも金融も「虚業」と捉える暗黙の了解があるように感じる。汗をかいて物理的なモノを生み出すのが実業であり、「データをピコピコいじる」のは実業ではないのだ、という自負のようなものがあったのだと思う。上述の『エコノミスト』の表現を借用するなら「無形資産」をあまり評価していない風潮とも言える。 しかしながら、2020年の産業界の動きを振り返ってみると、その「虚業」が「実業」の世界に襲い掛かってくる予兆があちこちに見られるのである。それも、天文学的な資金を惜しげもなく投下して、である。 ビッグデータという言葉がある。スマホや、もっと小さな情報機器が社会の隅々にまでいきわたると、人間や社会の動きを逐一データとして拾ってくることにより、巨視的な予測が可能になるという状態を表現した言葉である。このビッグデータは、20世紀の「石油」に喩えられるほど貴重な資産であり、莫大な収益をもたらすと予想されている。ビッグデータは、グーグルやフェイスブックのようなIT企業が、アルゴリズムを駆使してすでに収集に成功している。というより、これら企業のビジネスモデルを世の中の人が必死で分析した結果、「データはカネになる」と気づいて命名したのがビッグデータなのかも知れない。 経済的に見ると、データ市場は400兆円ほどの規模を持つとも言われている。この400兆円市場をめぐって、半導体メーカーたちが巨額の企業合併を始めているのだ。AMDがザイリンクスを買収し、ADIがマキシムを買収し、SKハイニックスがインテルのメモリ事業を買収する。それだけではない。「虚業」であるはずのIT企業たちも、自ら半導体を製造すべく、開発を進めていると言われている。アップルがCPUを開発し、グーグルがサーバー向け半導体を開発するなど、IT企業は既に「データをピコピコいじっている」だけの存在ではなくなりつつある。 明らかに、世界的な規模で産業界に変化が起きつつある。IT企業はデータビジネスももちろんだが製造業としての顔を持つようになるだろう。一方で製造業も、データを売るための装置を開発するようになり、両社の境界は曖昧になっていくのかもしれない。冒頭の『エコノミスト』の話に戻ると、IT企業などのテック系株が「一段落」した後には、製造業系の企業が再評価されるのかも知れない。もしかしたら、中長期的にはITや製造業といった境目が無くなる分野も登場する可能性さえあると思う。 (参考)※すべて2020年12月12日アクセス The Economist, “Value investing is struggling to remain relevant” Nov 14th 2020 edition, https://www.economist.com/briefing/2020/11/14/value-investing-is-struggling-to-remain-relevant 「データ時代の盟主は誰に 半導体で吹き荒れる再編の嵐」『日本経済新聞』2020年11月20日 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66442640Z11C20A1X11000

【2021年と2022年の禁酒のお知らせ】「妊活」に伴う2年間の禁酒につきまして

2020年12月7日 各位                                                                                                                                                                 @AtsushiSeoul 【2021年と2022年の禁酒のお知らせ】 「妊活」に伴う2年間の禁酒につきまして 平素より大変お世話になっております。 皆様には日頃から会食などで私にお付き合い頂き、ご愛顧を賜り大変感謝しております。 さて、私事ではございますが、来る2021年1月1日から2022年12月31日までの2年間、禁酒(アルコールの含まれた飲食物を摂取しないこと)を実施させていただくことをお知らせします。 背景といたしましては、私共夫婦が妊娠出産及び育児を準備中であるため、妻だけでなく、予備父親たる私といたしましてもアルコール類を自制すべきであるとの結論に至った次第です。このため、自他ともに認める酒豪の私ではございますが、母子の健康のためにこの度の2年間の禁酒に踏み切ることとなりました。 禁酒期間を2年間としたのは、妊娠、出産、そして乳幼児の育児まで考慮した結果です。こちら韓国では男性は2年間の軍隊生活で強制的に禁酒をするということですが(外出休暇時を除く)、私も「入隊」したと思って2年間、アルコール類とのお付き合いをお断りさせて頂きたく存じます。皆様におかれましては、お酒のお誘いなど頂く機会は多くあると思いますが、何卒ご容赦くださいませ。 なお、先日風疹及び肝炎の予防注射を夫婦で受けた関係から、現在は避妊中でございまして、2020年12月いっぱいは飲酒可能でございます(避妊自体は3か月間続けます)。2020年12月31日を以て飲酒の「卒業式」を行わせていただきます。 コロナなどで会食はもともと難しい状況ではございますが、上記ご了承頂きたく告知させていただきます。 今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。 以上

韓国に学べ!

ブログのテーマを新しく変えてみた。 今までは「妻を追って韓国移住」だったが、これからは「韓国に学べ!」として運営してみたいと思う。 テーマを変えた理由についてだが、もともとこのブログは、男性が結婚移民者として韓国に暮らす上でのあれこれを書くことで、自分と同じような人の役にいつか立てばいいと思って始めたのである。その意図にはいまだに変わりはない。 一方で、そろそろ3年半韓国で暮らしながら、自分なりに考えてきたこともある程度まとめていきたいという気持ちが強くなっている。 私どもは、韓国に暮らす日韓夫婦である以上、日韓関係のような政治的動乱には無関心でいられない。他方で、日韓関係というのは才能の墓場であり、これまでに数々の優秀な、日韓フルバイリンガルの諸先輩方が誠心誠意努力しても、結局善意が浪費されるのを見てきた。何というか、考え方を根本的に変えなければならないのだと思う。その最も大事なポイントは、受け手の問題だと思う。 私は日本人であり、日本語母語話者でもあるので、自然と論考は日本語が中心になる。したがって日本語話者の大部分を占める日本人の思考方法について思いをめぐらせざるを得ない。日本人は、序列を好む。あまり褒められた話ではないが、特に最近はそれが顕著である。分かりやすく言えば、「相手が自分より格上かどうか」で対人関係をカスタマイズしている。国際関係においても、(実態がどうであれ)韓国を格下と見なすことで、外交や世論の前提としているように見える。 しかしながら、倫理的判断を別にしても、韓国を格下と見るのは日本のためにならない。気づく、気づかないに関係なしに、すでに民主主義・科学技術・芸術、多くの部分で日本は韓国に「負けて」いる。日本が韓国に負けたのが何が悪い、そもそも国対国で勝ち負けなど気にしていることのほうが前時代的だ、という反論もあり得よう。それはそれで構わない。 だが、日本が韓国に負けている分野というのは、同時に世界のほとんどの先進国に負けている分野でもある。権力者の恫喝で、デモや政府批判が出来ない民主主義は、民主主義と言えるだろうか?コロナ給付金の集計を役所がFAXで行い、人的ミスが多発するのが2020年の光景なのだろうか?英語さえできていればビルボード進出も夢じゃなかった、と若い歌手が発言するのが、果たして芸術を志す人たちの世界の健全な姿なのだろうか? もちろん、知性を蔑ろにしたばかりに、日本がコロナを完全に見くびり、医療崩壊を起こしつつあることで、このままじゃいけないと気づきだした人も多くいることは分かっている。しかしながら、そうした状況をもって、「コロナ対策で、日本は韓国に“さえ”負けている」といった言説を見聞するたびに、まだまだ先は長いと思わざるを得ないのである。 日本は韓国に「さえ」負けたのではない。日本は韓国に「だから」負けたのである。韓国がすごいから負けたのだ。その冷徹な事実を正面から直視しない限り、日本が極東の最貧国に逆戻りするまでの時間はどんどん短くなっていく。 日本より韓国のほうが格上なのである。韓国に学ばない限り、日本に未来は無い。 そうした意味を込めて、韓国に学ぶべきところを、社会・産業・芸術など、様々な面から観察し、このブログに記していきたいと思っている。

今週の #韓国ブロックチェーン (2020年11月22日週)

#新韓銀行 #新韓カード #クレジットカード #日本 #特許 https://n.news.naver.com/article/001/0012035832?l ポイント: ・新韓銀行の新韓カード(クレジットカード運営会社)がブロックチェーン基盤の特許を「日本で」登録した。同特許は韓国では2019年7月に登録済み。 ・特許名は「与信仮想通貨生成装置及び与信仮想通貨管理装置」 ・クレジットカード取引全般をブロックチェーンで実装する。クレジット限度別の仮想通貨発行、クレジット決済、店頭(加盟店)清算まですべてブロックチェーンで行う。 ・この特許により、クレジットカード加盟店やカード会社と客が直接取引ができ、中継機関は必要なくなるという。

記録論:ブロックチェーンと国家の「失業」について

新しい社会現象を的確に概念化した昔の知識人は偉かったと、つくづく思う。 ホッブズは『リバイアサン』の中で近代「国家」というものが如何に暴力をうまくコントロールするのに特化したかを描いたし、マルクスは『資本論』の中でお金がお金を生む生命体のような何かを「資本」と名付けた。 何も自分が偉い知識人になりたいと思ってるわけじゃなくて、単純に自分の生まれた時代にもどうやら似たような大変動が起こりつつあると気が付いて、それを描写するためには上述のような大碩学並みの力量が必要そうだ、と思いながら軽くため息をついているだけです。 その大変動とは何かというと、人によってはAIだという人もいるが、僕はブロックチェーンだと思う。ブロックチェーンをどう描写するか、それは本当に色々なやり方があると思うが、歴史学・社会学に関心のある自分から見ると、「中心の存在しない記録の連続体」とでも言えそうである。 詳しい技術のことは色々な本に書いてある。日本語にも結構いい本があるし、英語はもっと量がある。曰く、暗号学を駆使した脱中心的なネットワーク。曰く、金融の根幹を変えてしまう大発明。曰く、インターネット以来のdisruption。 どれも正しいとは思うのだが、技術だけでなく政治経済に絡めてブロックチェーンを語る書物も、何となく金融とか経済に焦点を当てることが多いように思う。それにはちゃんとした理由があって、そもそもサトシナカモトがビットコインの概念を提唱したときに、どうやら2008年前後の金融危機を受けた既存金融へのアンチテーゼとして提唱したらしいことは多くの人が指摘するところである。 ただ、僕が見るところ、ブロックチェーンが変えてしまう(可能性のある)事象というのは、金融というよりも国家の方なのだと思う。社会の血流が金融だとすれば、骨格にあたるのは国家なのである。金融機関の信頼というのも、21世紀の社会構造的には、国家の暴力を後ろ盾にしている部分が大きい。 ブロックチェーンは、誰にも異議の唱えようがないほどの正統性をもった記録を実現できる。その根幹となるのは数学理論だが、詳しく入っていく必要は無いと思う。 要は、 ・衆人環視の下で、 ・1+1=2のような自明の計算を基に、 ・記録の承認が続けられるシステム がブロックチェーンなので、もはや国家権力が警察力や軍事力という剥き出しの暴力を背景に官僚に記録をさせなくても、信頼するに足る記録体系がこの世に生まれてしまったということが大事なのである。 記録は、もう国家がやらなくてもよい。 そうなると、経済はだんだん国家に依存しなくなっていく。記録という大きな仕事を喪った(いわば「失業」した)国家は、次は何に存在意義を求めるだろうか? ホッブズは『リバイアサン』の中で、人間が人間を相手に戦い続ける状態を克服するための一つの概念として、社会契約の重要性に触れているわけだが、社会契約の担保として、リバイアサン(怪物)のような強大な権力を持った主体、すなわち国家が生まれうるとしている。 これはのちの政治哲学に大きな影響を与えていて、例えば国際関係論のような学問では、国際社会にはリバイアサンのような強大な統治者がいないために、基本的には合従連衡を繰り返すジャングルの掟の世界であるとする。要するに、人間社会のあらゆる約束を守らせるための最終的な担保は暴力以外には存在しない、という世界観である。こうした考え方はリアリズム(現実主義)とも呼ばれる。 リアリズムを一つの思想的背景として持つのが保守主義だが、保守主義というのは人間の本質というのは基本的にはずっと変わらないという立場でもある。そうすると、たとえブロックチェーンが「国家よりうまく」記録の管理をできる時代になっても、人間は「約束を守らせる力」としての国家の暴力を求め続けるであろう、という意見も出てくる。 これはこれで有力な議論だと思うし、僕も敢えて否定はしないが、一つだけ付け加えるとしたら、記録という仕事において、国家以上に国家の仕事をうまくできてしまうライバルが現れたら、国家には今まで以上の何かの付加価値を出していかないと、存在がアピールできなくなるということだ。つまり、無くてもいいのに維持するためのコストというのが、ちょっと信じられないくらい大きくなるのではないか、ということである。 議論に補助線を引くために、与那覇潤の『中国化する世界』(文藝春秋社、2011年)に紹介されていた話を紹介して、この記事を終わりにする。 東アジア(中国と韓国)では、宋や朝鮮の時代に身分制度が廃止されて、皇帝以外すべて平民という平等社会が現れた。一方で日本は江戸時代に突入し、逆に身分制度を固定する方向に走った。しかしながら、世界も経済も繋がっているので、「身分社会が要らない世界」で「身分制度を維持するコスト」というのが、陰に陽に江戸システムを圧迫し続け、最終的にはそれは西日本(人口圧力が強く、大都市が少ない)の下級武士の不満の爆発という形で崩壊した。 「要らないもの」を維持するためのコストというのは、必ず高くつく。ブロックチェーンが、ある意味国家を「要らなくする」と、国家の維持のために何らかのコストを払わざるを得ない時代になるのかも知れない。そのコストというのは、今まで以上の資本主義的な何かかもしれないし、戦争のような国家が最後まで手放さない特技なのかも知れない。

今週の #韓国ブロックチェーン (2020年11月8日週)

#特定金融情報法 #仮想通貨取引所 先週、こんなニュースがあったばかり。特定金融情報法という法律による、さらなる仮想通貨取引所の締め付け。 と思ったら今週、こんなニュースがあった。 대한블록체인조정협회, 독자적 거래소 ‘DBX’ 출범(파이낸셜뉴스) https://www.fnnews.com/news/202011151701134480 社団法人・大韓ブロックチェーン調整協会が、自前の仮想通貨取引所を立ち上げるというニュースである。取引所名はDBXであるという。一般企業ではなく社団法人であるということが少し気になった。国政では取引所を規制しつつ、こうした政府系の(?)法人を使って少しずつ仮想通貨取引所を運営していくということなのだろうか?

韓国のコロナ対策は「ブレーキの利き」がいい

日本のコロナ状況について言及するのは、これが最後になる。 半年ほど前までは、自分の祖国でもあり、韓国の永遠の友邦でもある日本のコロナの状況を心配していた。 しかしながら、誇り高い日本人は、外国からの助言などは必要ないようなので、妻を追って韓国に移住した日本人の私が何を言おうと聞く耳を持たないことがはっきりしたので、今回を最後にもう言及することはないだろう。 代わりに韓国のコロナ状況について語ってみたいと思う。が、あまり枝葉末節に入って行っても仕方ない。自分は医学者でもジャーナリストでもない、ただの結婚移民に過ぎないので、生活者としての実感をここに書いてみたい。 韓国におけるコロナの対策は、経済学風に言うとelasticityがあると思う。 elasticityは日本語では「弾力性」と訳されるらしいが、感覚が伝わるかどうか不安である。ある政策にelasticityがあるとき、その政策にはより明らかな成果が見えるのである。 elasticityを別の言葉で言い換えてみよう。韓国のコロナ対策は、「ブレーキの利き」がいいと思う。決して、コロナ新規患者がゼロになったわけでは無い。たびたび小流行を繰り返している。だが、そのたびに、「しっかり対策をすれば2週間後には感染者が激減しているはずだ」という安心感に近い感情がある。 韓国では、政府のコロナ対策本部がある。疾病管理庁という。元はそれほど大きな部署ではなく、疾病管理本部という扱いだったが、2020年9月に独立した省庁となった。この経緯は、韓国在住のジャーナリストの徐台教氏の記事に詳しい。  https://news.yahoo.co.jp/byline/seodaegyo/20200911-00197832/ 疾病管理庁やその前身たる疾病管理本部は、今年の1月から八面六臂の大活躍だった。初期の中国からの入国者・接触者のトラッキング、マスクなどの効果に関する調査と宣伝、南部の都市である大邱での大流行の即座の鎮圧、数えればきりがない。 今年の4月には国会議員選出の選挙があった。大邱での大流行が落ち着いて間もない時期に、選挙という人と人が交わりあうイベントを、全国規模で行うことにかなりの不安があった。が、ふたを開けてみればほとんど影響がないことが明らかになった。 また、8月には光復節に極右団体が大規模集会を行ったこともある。この時には極右が、当局の監視にも関わらずなりふり構わず振り切って集会を開いたのだが、ここでも一時拡散の兆しがあった。疾病管理本部はこの時、改めてコロナの脅威を盛んに社会に対して呼びかけたところ、2週間後にはまた落ち着きを取り戻した。 9月末には韓国人の重要な伝統イベントの一つである、秋夕(チュソク)というものもあった。これは旧暦のお盆のようなもので、親戚一同が集まるための連休だったが、ここでも政府が「今年は集まらないほうがいいですよ」ということを陰に陽に言い続けた結果、秋夕でのコロナ再拡散は防がれた。 こうした政府のリーダーシップと、それに伴って(2週間という)時間差で鎮圧がなされるという繰り返しが、韓国社会全体に、「たとえ再拡散の兆しがあっても、しっかり隔離や自制をすれば抑え込める」という自信のようなものを与えているように思う。 韓国にとっても、世界の他の全ての国と同じように、コロナは未知の脅威である。だが、同じ未知の脅威であっても、それに立ち向かう人々の心持ちによって、生まれる結果が極端に違うようだ。 中国は、この問題のウイルスの大流行が最初に確認された国である。人口も世界で一番多い。しかしながら、徹底した検査と隔離とロックダウンによって、すでに事実上感染者をゼロにするところまで来ている。台湾も、ベトナムも、ニュージーランドも、同様に徹底した対策によって、自分たちの社会での感染者をゼロに近い水準で抑え続けている。 一方、日本やアメリカでは、そもそもコロナを封じ込めるべきかどうかについての議論を、いまだに続けているらしい。封じ込めが可能であることが、上記のような諸外国の例からすでに明らかになっても、そういう議論をしているらしい。とても不思議である。 コロナを完全に抑え込み続けている台湾では先日、性的少数者のパレードが行われたという。同性婚をアジアで初めて合法化した台湾が、コロナを完全に抑えているのは、決して偶然ではないと思う。未知の脅威に対する際に最も必要なのは、自分の知らない領域があると虚心に認める態度である。無知の知、とも言う。そうした知的態度を維持するのは、例えば社会的弱者に対する態度と相関があるはずだ。 「知性を蔑ろにした社会には決して克服できない脅威」が登場してしまった時代に、我々は生きている。 @atsushiseoul

日本にとって韓国は「忘れ得ぬ他者」である

日本出身者として韓国で生活していると、不思議なことがある。 インターネットの時代なので、韓国であろうと日本語の情報には不自由しない。ところがこれには落とし穴があって、その日本語の情報というものがかなり怪しいのである。 検索サイトに行ってみる。韓国住みなので、韓国での出来事もどう報道されているかを覗きに行く。それを繰り返していくと、自分のヤ〇ーサイトのトップページに韓国関連の記事がお勧めで出て来やすくなる。そう思っていた。 ところが、別に韓国住みではなくても、日本では韓国の話題に事欠かないらしい。KPOP?韓国ドラマ?そういう話題ではない。 日本では韓国のことが話題になり続ける。それはエンターテイメントではなく、主に政治、それも韓国の国内政治が話題となっているらしい。いわく、与党政治家にスキャンダルがあった。いわく、若者の失業率が最悪だ。いわく、競争社会で人々が絶望している、等々。 日本は理想郷なので国内での社会問題をすべて解決してしまって、退屈なので隣国の心配をしているのだろうか?習近平は中国の人権問題に何かと口出しをする西洋人を指して、あれは「吃饱了没事做的外国人(お腹がいっぱいになるまでご飯を食べたので、やることが無くなってヒマな外国人)」であると皮肉ったことがある。日本人もお腹いっぱいなのでじゃあ外国の心配でもしてあげるかとなったのか?どうもそうではないらしい。 韓国と違って日本政治に腐敗はないのだろうか?そんなことはない。スキャンダルの連続である。日本では若者の失業問題は存在しないのだろうか?お兄さんそれ僕の友達の前で言える?日本は競争社会ではないのだろうか?いやいや自分の人生振り返ってみてくださいよ。 全て、日本でも問題になっていることである。なのになぜか韓国のことばかり報道し、まるで韓国に比べて日本はマシであると書くことで安心したがっているかのようだ。 いやいや即断は良くない、何か考えるヒントは無いだろうか、そう思いを巡らせていると、ある本を思い出した。 日本史、特に明治維新研究の大家であり、東京大学名誉教授の三谷博が書いた『愛国・革命・民主:日本史から世界を考える』筑摩選書、2013年である。 私は、この本で紹介されている、「忘れ得ぬ他者」という概念に改めて感銘を受けた次第である。 「忘れ得ぬ他者」とは何か?簡単に言うと、近代国家が成立する際には、「分かりやすい敵」であるとか、「憧れの外国」のような存在が必要である、という考え方である。 日本は、古代以来ずっと中国文明にあこがれてきた。漢意(からごころ)に対抗して、大和魂(やまとだましい)を喧伝してみた本居宣長は、そんなコンプレックスを一人で背負っている代表格である。あこがれて、でもそれにはなれなくて、いつまでも想い続ける。これも「忘れ得ぬ他者」である。 逆に、敵愾心から忘れたくても忘れられない対象になることもある。アメリカ合衆国は、独立革命の仇敵であった英国を永遠に忘れることはない。中華人民共和国は、半封建半植民地であった近代中国の弱みに付け込んで侵略戦争をしかけた日本を永遠に忘れることはない。結局、そうした苦難の戦争を乗り越えて国家を建設できたと言えば聞こえはいいが、だからこそいつまでも忘れることはできない。これも「忘れ得ぬ他者」である。 三谷博の議論で大事なのは、日本にとっての「忘れ得ぬ他者」は、古代以来ずっと中国だったのに、日清日露戦争で急激に影が薄まり、太平洋戦争の敗戦によりほぼ完全に中国は「忘れられた」(そしてアメリカが「忘れ得ぬ他者」となった)ということである。大急ぎで付け加えると、冷戦以降、日本人は中国を「思い出した」。中国の国力が回復するにつれ、日本人は再び中国を忘れられないようになっている。 と、ここまでが三谷の議論なのであるが、どうもここに韓国というファクターを補充しなければならない気がしている。 日本の言論空間を見るに、韓国について報道しない日は無い。いや、報道とさえ言えない、下世話な、貶めるような、植民地主義そのものの言説が日々垂れ流されている。 だが、ただの植民地主義、卑下するような言説であると一蹴するには、何だか屈折したものがあるような気もしていて、その理由をうまく説明するのに苦労していた。 三谷博の言う「忘れ得ぬ他者」ではそれがうまく説明できてしまうのである。三谷のモデルの中では、新しい国家を建設する時に引き合いに出される外国(好意的であれ敵対的であれ)が必要であるということだが、冷戦後経済停滞に苦しむ日本は、無意識のうちに敵対する国家を必要としていたのではないだろうか?もちろん、日本社会にもともと存在していた植民地主義的、民族差別的な情緒も大きいだろうが、それにしても他者を媒介にしてしかもはや社会をまとめられなくなっているのではないだろうか。 日本にとって韓国は「忘れ得ぬ他者」になった。忘れられないので、毎日韓国のことについて報道せざるを得ない。韓国無しでは日本をまとめられないのである。

社会を動かすものは何か

社会を動かすものが何なのか、その定義によって社会の見え方は変わってくると思う。 ある人は経済だと言うだろうし、ある人は情報だと言うだろう。また別の人は軍事力と言うかもしれない。どれもある程度正しいだろうし、どれか一つだけが正しいわけでもないだろう。 私が興味を持つ分野に、歴史学と経済学があるが、どちらもある意味社会を動かすものが何かについての探究であるように思う。時間の流れを輪切りにして、その時代時代の瞬間を切り取って理論を作っていくのが経済学だとしたら、世の中の流れを「語り」上げるのが歴史学なのかも知れない。 自分が大仰なタイトルで記事を書き始めてみた理由は、どうも今の社会を動かすものをどう描写していいのか悩むことが増えたからだと思う。資本なのか?国家なのか?テクノロジーなのか? ユヴァル・ノア・ハラリは今後の世界を動かすものは情報技術と生命技術だと分かりやすく整理している。特に生命技術の話や、今後のスーパー人類の話などはとても興味深い。 が、何となく、自分には語り切れない分野であるという気がしている。 自分は、やはり、いわゆる人文系で(まあそれを言ったらハラリもそうだが)、歴史の流れの中で社会構造が変わっていく様を「語り」によって捉えてみたいという歴史学徒(またしてもハラリ先生こそ大先輩だが)の端くれなのだと思う。 「語り」たいことは他にもあって、要するに ・人間社会のリソース(資源)の相当部分を、「国家」という組織に集中させて、経済その他の社会活動を回していく というスタイルが、いつまで有効なのだろうかということである。それは、「正統性」(正当性とは限らない)をめぐる政治経済学となるはずである。「記録」の正統性が暴力に依存しなくなった世界では、暴力を独占する存在としての国家は、解体されずに済むだろうか? ちなみに、「記録」の正統性を国家から奪うはずの技術が、ブロックチェーンと呼ばれる技術である。 ゆっくり考えていきたい。時間はだいぶかかるはずだからだ。ただし、国家が無くなった世界では、「国家があった頃」の様子を想像することは相当難しくなっているはずだろうけれど。 @AtsushiSeoul